【ドイツ/世界遺産】中世の古城「ヴァルトブルグ城」の歴史

ドイツ

世界遺産ヴァルトブルグ城。少し日本での知名度では劣ってしまう気もしますが、ドイツの歴史、文化と深く結びついた中世の古城です。装飾の華美さだけではなく、中世より脈々と、歴史と共に歩んできた名城は、ドイツ人の訪問客が絶えません。表面だけではないドイツ文化に触れてみたい方は、ぜひ一度訪れるべき名城です。ドイツの歴史的な重要事項が目白押し。

ヴァルトブルグ城

ドイツのちょうど中央部に位置する、テューリンゲン州の町、アイゼナッハを見守るように山の上に立つ、ヴァルトブルグ城は、ドイツ文化におけるその重要性から世界遺産に認定されています。また、12世紀に建築された主要部分の70パーセント以上が現存しており、世界屈指の保存状態が良好な中世の居城となっています。

またこの城は、宗教改革のルター、詩人ゲーテ、聖人エリザベートと関わりが深く、ワーグナーのオペラ「タンホイザー」や、戦後ドイツの民主主義化の舞台となるなど、歴史的に重要な役割を果たしてきました。城の歴史の流れを踏まえた上で訪問してみると、ドイツの文化により深く触れる事が出来るかもしれません。

起源 1067年?

伝説によると、このヴァルトブルグ城の起源は1067年に遡るとされています。この伝説では、マインフランク地域の伯爵、ルードヴィヒ・デン・シュプリンガーが狩りの最中にこの山頂に着き、そこからの景色の美しさに魅入られ、そこでヴァルトブルクという名の城を建てることを決めました。どうしてもこの土地に築城したかった為、自身の領地からこの山の上まで大量に土を運ばせ、城が自分の土地の土の上に建っているとして建立したという伝説で、城内の「ランドグラーフの部屋」では、壁画となってみることができます。

という伝説が伝えられているものの、史実上の起源はよくわかっておらず、1080年の書物に初めて名前が挙げられており、戦略上重要な場所で、見張り台(ヴァルト)があったことがその名前の由来となったと考えられています。

改修・増築 12世紀

城の起源となったルードヴィヒ伯爵が亡くなった後、その息子は領地を拡大し、地位も上げて、孫が石造りのロマネスク様式の本丸への改修に取り掛かり、曾孫が増築も含めて完成させました。この12世紀の改修・増築された城を現在でも目にすることができるのです。

その後もこの家系「ルードヴィング家」は中央ドイツで権力を増大させ、歌人等の芸術の重要な擁護者となっていきます。

歌合戦(ワーグナーとノイシュバンシュタイン城)1206年

13世紀初めには、このヴァルトブルグは、ウィーンと並び、全ヨーロッパにおいて最も重要な劇場(宮殿)とされていました。そんな中、このヴァルトブルグ城の「歌の間」で1206年に当時の有名詩人たちが集まって、歌合戦が開かれ、この歌合戦をワーグナーがオペラ「タンホイザー」に導入し、世界的に有名になりました。

また、この城には「祝宴の間」という中世に建てられた大きなホールがあります。現在そこは、中世の暖炉などが残るものの、19世紀に芸術的価値を備えて再建されたものとなっています。この芸術的ホールはその時代に大きな影響をおよぼし、シンデレラ城のモデルともなったと言われるノイシュバンシュタイン城にそっくりそのままの部屋を作らせています。

聖エリザベート(ハンガリー王女) 13世紀

この城はキリスト教の聖人となったハンガリー王女エリザベートの居城でもあり、活動の場でもありました。

彼女は、城の起源となったルートヴィヒ伯爵から数えて6代目当主にあたるルートヴィヒ4世の妃としてわずか4歳で赴き(1211年)、夫を若くして戦争で亡くす1228年までの17年間、3人の子供をもうけ、このヴァルトブルグ城に住みました。その間、彼女は禁欲的で、貧しい人々や病人に対して献身的な生活を送り、様々な場所に救貧院を設立しました。夫亡き後、マールブルクに移って1231年に24歳の若さで亡くなるまで、修道女として更に熱心にフランシスコ会派の活動に取り組み、1235年教皇に聖人として列せられ、広く崇拝される人物となりました。

現在の城には、彼女の生涯をガラスモザイクで描いた、豪華で美しい「エリザベートの暖炉のある居間」や、彼女をモチーフとした6枚の大型フレスコ画を飾った「エリザベートの画廊」があり、必見です。

マルティン・ルターの聖書の翻訳 1521年〜1522年

16世紀初め、カトリック教会の改革の波が興る中、改革を先導するマルティン・ルターは教皇に破門され、皇帝には国外追放とされました。そのような中、ルターに共感を覚えていたザクセンのフリードリヒ賢公は、このヴァルトブルグ城にルターを匿い、ルターはこの城で、10か月のうちにギリシャ語の新約聖書原文を、ドイツ語に翻訳したのです。

現在、この城には、ルターが新約聖書を訳し上げた部屋が残されており、ツアーコースの最後に見学することができます。また、この部屋には当時の壁が残っており、ルターが悪魔に向かって投げたとされる、インクの跡が…!?

ゲーテによる再発見と再建 18世紀〜19世紀 

その後、ヴァルトブルグ城の塔は牢獄として使用されることとなり、この居城も保管庫、または別荘として一時期のみ使用されるようになり、30年戦争の際には疎開場所として使用されました。このような状況下、城の建築は急速に朽ちていき、1777年になってようやくヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに再発見されることとなります。

ヴァイマールの大臣であったゲーテは、この城からの景色をいたく気に入り、しばしば訪れ、長く滞在するのと共に、城を再建し、博物館を作ることを提案しました。

学生組合の集会 1817年

宗教改革300周年と、ナポレオンによる支配に反抗し、勝利したライプツィヒの戦い4周年にあたる、1817年10月18日、当時創設された学生組合により、ドイツ最初の市民的・民主的な決起集会が、11の大学の500人ほどの学生が集まって、「名誉・自由・祖国」をスローガンとして、ここヴァルトブルグ城で開催されました。

後に国旗のカラーとなる黒、赤、金色を使用した、この最初の学生組合の旗が「祝宴の間」の暖炉の上に掲げられています。

基本情報・アクセス

ヴァルトブルグ城 (独;Die Wartburg 英; Wartburg Castle)

  • 住所;Wartburg-Stiftung, Auf der Wartburg 1, 99817 Eisenach
  • 開館日;年中無休
  • 見学;城内はガイドツアーのみ(ドイツ語、英語のみ。日本語パンフレットあり。)博物館、敷地は個人見学可。
  • アクセス

   

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