【イギリス】長州ファイブと薩摩スチューデント~ロンドンでの足跡を訪ねて

イギリス

時は幕末、江戸幕府による鎖国政策下にあって秘密裡にイギリスへ派遣された長州藩士5名(井上馨、伊藤博文等)と薩摩藩士19名(森有礼等)、俗に言う長州ファイブ(長州五傑)と薩摩スチューデント(薩摩藩第一次英国留学生)の足跡が現在のロンドンに!?

市内中心部にあるロンドン大学の裏庭には、彼らを称える立派な石碑が現在でも建っています。西欧列強によるアジア諸国の植民地化が進んだ当時にあって、祖国を憂い命懸けの航海を経てこの地に辿り着いた先人達の雄姿は、時代を超えて、地域を越えて、今後も語り継がれていくことでしょう。

ロンドン大学 ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン

移り行く時代~鎖国から開国へ

日本は、17世紀初頭以降、江戸幕府による統治の下で250年余りに亘って、外国貿易や日本人の海外渡航を禁じる鎖国政策を敷いてきました。こうした中で、歴史的な転換点である「ペリーの黒船来航(1853)」を契機に開国への圧力が高まり、1854年日米和親条約締結により鎖国政策は終焉を迎えましたが、日本人の海外渡航については1866年まで依然として禁止状態が続いていました。

こうした江戸幕府による海外渡航禁止令の下で、幕府の許可を得ずに、長州藩が1863年、薩摩藩が1865年に、イギリスへの留学生派遣を実施しました。

長州ファイブ(長州五傑)

長州藩からイギリス派遣の命を受けた長州ファイブと呼ばれる長州藩士5名(伊藤博文、井上勝、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三)は、1863年5月に横浜港を出港、中国(清国)経由で、約6ヶ月間にわたる長旅を経て、晩秋の11月にロンドンへ到着しました。

ロンドンでは、著名化学者アレクサンダー・ウィリアムソン氏が迎え入れてくれ、同氏が教授を務めていたロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(英名:University College London、略称:UCL)に聴講生として入学し、様々な学問に接します。

当時、信仰や人種を超えて留学生を受け入れていたのはUCLだけだったと言われています。翌1864年4月、列強4カ国が長州藩への攻撃を準備しているとの情報を得、伊藤と井上馨が藩にこの事実を知らせるため、半年間にわたる留学を終えて帰国の途につきました。

ロンドン時代の写真

薩摩スチューデント

1863年、攘夷思想が高まる中で薩摩藩はイギリスとの戦争(薩英戦争)に突入、この結果大きな損害を蒙ったものの、先進的な西欧文明・技術力の高さを目の当たりにすることとなりました。このためイギリスとの講和交渉では、薩摩藩からイギリスに留学生を派遣することを提案し、視察員3名、通訳1名、留学生15名からなる計19名の渡英がイギリスに認められました。

こうした経緯を経て、薩摩スチューデントと呼ばれる一行は、渡英後、先行した長州ファイブ(伊藤と井上馨は既に帰国済)と同様に、UCLの聴講生として入学しました。人数が多かったため、ウィリアムソン教授が他の英語教師を紹介するなどしていたようです。このようなロンドン留学の繋がりにより、薩摩藩士と長州藩士は薩長同盟以前に、イギリスの地で交流を深めていました。

記念碑

このような長州・薩摩両藩の留学生は、UCLで学んだ後帰国、または他の国でさらに経験を重ねた後帰国し、近代日本の発展に大きく寄与していくこととなります。その大きな貢献を讃えて、日本には記念館が建てられていますが、イギリスにおいてもUCLの中庭に記念碑が建てられました。幕府による渡航禁止令が続く中で密航したこの留学、名前を変えて留学していた者もいますが、長州から5名、薩摩から19名の藩士が留学してきた事実が、その石碑にしっかりと刻みこまれています。

UCL内にある説明パネル

UCLの校舎の中には、長州ファイブについての説明パネルが設置されています。ここには長州ファイブに関連して、日本の鎖国政策やウィリアムソン教授の功績等についても、丁寧な説明が記載されています。

このパネルにも写真が貼付られていますが、UCLの前庭にはソメイヨシノが植えられています。今年もUCLの地に因んだ様々な日本への思いを乗せて、きれいな桜の花を咲かせてくれるのでしょう。

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